2013年7月15日

フランシス・アリス展に行ってきました。

フランシス・アリス展に行ってきました。

世界で起こっている民族どうしの問題や、その中にあって同じ人間通じ合うもの、などを取り上げ、街中で行ったパフォーマンスの展示だったのですが、センセーショナルだったり目に見えて反社会的だったりという方法ではない方法でうまく社会を切りとって私たちに提示しているところが私はとても好きでした。

主だったのが「川に着く前に橋を渡るな」という作品でした。これはジブラルタル海峡で、対岸に位置するスペインのタリファとモロッコのタンジールの海岸から舟の模型を持った子どもたちがそれぞれ対岸に向かって列を成し、「橋」を架けるというものです。

最初、本当に人の列で海を渡したのか(まさか!泳いで外国に行くことになる…)、と思ったり、両方の海岸から伸びる子どもの列が「橋」に見えるようなアングルで写真撮影するのか、と思ったりしたのですが、作家の辿り着きたかった先はそこではなく、言葉も文化も宗教も異なる子どもたちがお互いに対岸の子どもたちの列を想像しながら、水平線上に「想像上の橋」を描けるか、というのがテーマだったようです。じっさい、「人の橋が架かる」という内容のポストカードを街で配って噂を流すことも行ったようで、そのようなストーリーが広まること自体も作品の一部のようでした。

面白いのが、この取り組みはジブラルタル海峡で行われる前に、アメリカの最南端の都市フロリダ州キーウエストと、キューバのハバナ間でも行われたということです。この時は子どもではなく、漁師が出した船で列を作るというものだったのですが、その時直面した問題なども記録として残されていました。

まずキューバ側では漁民組合に声をかけたために100隻ほどの漁師が船を出してくれたが、アメリカ側では個人個人に頼んだため30隻しか集まらなかった、結果として「キューバから海を渡ってアメリカへ行きたい人は多いがアメリカからキューバを目指す人はいない」というようなメッセージを生み出してしまった、ということ。

さらには政治的な問題で、キューバ側、アメリカ側双方で同じプロジェクトを行っているということがお互いに知られてしまうとプロジェクトを中断させられるおそれがあったため、シークレットな状態で進められたこと。参加する漁師自体が対岸の漁師たちの存在を知らないので、お互いが「橋」を想像するという前提が崩れることになってしまったこと。

何かを伝えたくて何かのアクションを行い、それを記録に残して他の誰かに見せる。最初から最後まで綺麗なストーリーになっているものもあるし、ちょっと美化しているような見せ方になっているもの、それでも伝えんとすることに共感できて「いいな」と思うものもあります。でも漁師に自主的に船を出してもらうという大掛かりなプロジェクトで、人を動員するだけでも大変だったに違いないのに、その上テーマの根底を揺り動かすような形に流れていきながら、それすらも淡々と記録として残してあるところにとても好感を抱きました。だからこそ、ジブラルタル海峡での試みはもっと好感をもって見ることができました。

何を完成させた、何が解決した、ということを追うものではないところがアートなんだろうな。展示の途中で読んだ記録冊子に書かれていた作家の言葉が印象的でした。「物語とは、何も解決することなく、場所を通過していくものだ」

東京都現代美術館 フランシス・アリス展
2013年9月8日(日)まで
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/141/

2013年7月14日

「英語が通じない」

日英翻訳の原稿で、ある途上国の農村で働いていた日本人スタッフの回想記事がありました。赴任したばかりの言葉の通じなかった頃を振り返り、「英語の通じない場所で…」という内容の文章があったのですが、翻訳者(英語母語話者)からこんな内容のコメントが来ました。「日本人には、日本以外の全世界では英語が話されていて、海外に行ったら英語を話さないといけないという考えがあるから『英語の全く通じない』などという原稿を書いたのではないか。」

筆者はただ単純に、英語は少なくとも日本語よりは世界的に広く使用されている言語なので、「日本語はもとより、英語も通じない…」というような意味合いで「英語の通じない」と書いたまでだと思います。でも次のように言われて確かになと思いました。
「例えば英語の母語話者がどこか外国の小さな農村に行くとして、『英語ならコミュニケーションがとれるだろう』と期待したりはしない。それと同じで、ここは筆者が日本人なので純粋に『日本語の通じない場所で…』と書くほうが自然」

一方で、ある友達に聞いてみたら、こんな意見を言われました。
「世界語として扱われている英語を母語にもつ人が、外国へ行って『この国では英語が通じない』と言うと、そんなつもりがなくても傲慢に聞こえてしまうかもしれない。でもそうではない日本語を母語にもつ人が同じ発言をした場合、傲慢には聞こえないんじゃないか(だからこの原稿はこのままでもおかしくはないだろう)」これもなるほどなと思いました。

筆者の頭の中でどんな考えや感情が起きていたにせよ、言葉として綴ったのは「英語が通じない」という内容だけ。それも日本語を母語にもつ筆者が日本語で考え、日本語で表記した内容です。そしてそういう条件下で生まれた原稿だからこそ、滲み出てくる背景があります。翻訳すると、形としては同じ内容を違う言語で書き換えるだけかもしれませんが、発信する言語が変わるということはその記事を読む人も変わるということなので、伝わる「感じ」が異なってしまうのかもしれません。翻訳の難しさってこういう見えないところにあるんだなと思います。

2013年7月6日

自分の言葉で説明するということ

友達に紹介してもらった美容院に行ってきました。

アンティーク調のお店は上品だけど重苦しくない感じで、はさみやスプレー缶の並んだワゴンも見えなければ雑誌棚も見えない、料理が出てきてもおかしくなさそうな綺麗なところでした。なぜか自分が丸裸にされるんじゃないかというような不思議な感覚になりました。

席に案内されると、たいてい最初にカルテを書きます。名前、連絡先、誕生日、髪の悩みやなりたいスタイル、読んでいる雑誌、さらにはカットしてもらっている間に美容師さんとたくさん話したいか、ゆっくり雑誌を読んでいたいかを選択肢で選ばせることもあります。どこの美容院へ行っても初めてのときはだいたい同じような感じでひととおりカルテを書き、書き終えたかなというところでカウンセリングが始まるのでそういう流れを予想していたのですが、この店はちょっと違いました。ご記入くださいと言われた台紙には名前と連絡先を書くだけ。

自分の好みや悩みはそうそう変わらないので、美容院のカルテって宅配便の伝票のようにすらすら書けてしまいます。例えば私はくせっ毛が悩みなので、いつも何も考えずその選択肢にマルをします。書き終わったら「うんうん、これが私」って妙に納得していたりします。でも今回のように何も書かされないと、急に自分自身に向かい合わさせられたような感覚になりました。自分の髪について、全部自分の言葉で説明しないといけない。私ってどんなスタイルになりたいんだっけ?いつもお手入れで困っていることって何だったっけ?

なんだかそわそわしていると、担当の人がやってきて自己紹介をし、ゆっくり丁寧にカウンセリングしてくださいました。話している間に私が迷いだしても、それもずっと聞いてくれて、わたしの中のおぼろげな希望をちょっとずつ見えるようにまとめてくれました。好きなスタイルにしてもらえたというより、なりたいスタイルがこれだったというのが分かったという感じ。

たぶんそこのお店は、選択肢にマルするだけでは表れないところにお客さんの本当の好みや悩みがあると確信しているんじゃないかなと思います。だからあえてなにも書かせないで、会話の中で解き明かしていくのではないかな。私にとっても、自分がどんなふうになりたいのか説明しなければならない環境になることで、自分と対峙する時間をもつことができました。久しぶりに素敵な時間でした!