2013年7月14日

「英語が通じない」

日英翻訳の原稿で、ある途上国の農村で働いていた日本人スタッフの回想記事がありました。赴任したばかりの言葉の通じなかった頃を振り返り、「英語の通じない場所で…」という内容の文章があったのですが、翻訳者(英語母語話者)からこんな内容のコメントが来ました。「日本人には、日本以外の全世界では英語が話されていて、海外に行ったら英語を話さないといけないという考えがあるから『英語の全く通じない』などという原稿を書いたのではないか。」

筆者はただ単純に、英語は少なくとも日本語よりは世界的に広く使用されている言語なので、「日本語はもとより、英語も通じない…」というような意味合いで「英語の通じない」と書いたまでだと思います。でも次のように言われて確かになと思いました。
「例えば英語の母語話者がどこか外国の小さな農村に行くとして、『英語ならコミュニケーションがとれるだろう』と期待したりはしない。それと同じで、ここは筆者が日本人なので純粋に『日本語の通じない場所で…』と書くほうが自然」

一方で、ある友達に聞いてみたら、こんな意見を言われました。
「世界語として扱われている英語を母語にもつ人が、外国へ行って『この国では英語が通じない』と言うと、そんなつもりがなくても傲慢に聞こえてしまうかもしれない。でもそうではない日本語を母語にもつ人が同じ発言をした場合、傲慢には聞こえないんじゃないか(だからこの原稿はこのままでもおかしくはないだろう)」これもなるほどなと思いました。

筆者の頭の中でどんな考えや感情が起きていたにせよ、言葉として綴ったのは「英語が通じない」という内容だけ。それも日本語を母語にもつ筆者が日本語で考え、日本語で表記した内容です。そしてそういう条件下で生まれた原稿だからこそ、滲み出てくる背景があります。翻訳すると、形としては同じ内容を違う言語で書き換えるだけかもしれませんが、発信する言語が変わるということはその記事を読む人も変わるということなので、伝わる「感じ」が異なってしまうのかもしれません。翻訳の難しさってこういう見えないところにあるんだなと思います。

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